2010年5月16日日曜日

新聞評の役割について

 東京新聞の歌舞伎評を担当して早くも二ヶ月が経過しようとしている。
 歌舞伎座最後の月からはじめたのは、なにかのめぐりあわせだと思い、自分を叱咤激励してきたが、四月に三本、五月に三本、書き終えた時点での感想を書き残しておく。
 新聞劇評は、公演がまだ継続しているうちに出るのが値打ちという考えもあるだろう。つまりは、観客がその芝居を観に行くか、やめておくか判断材料を提供するためにある。それもひとつの役割だろうと思う。ただし問題もある。欧米の劇評のように、初日の翌朝には、劇評が新聞に掲載されるようなシステムが、東京新聞にかぎらず、すべての新聞でできていない。そのために、掲載日によっては、公演のなかばどころか、終了後に掲載させる場合もでてくる。そのとき、観るか観ないかの判断材料とする意味は、ほとんど失われてしまう。
 しかし、考えてみれば、新聞に掲載されている各ジャンルの評のうち、このような役割を与えられているのは、歌舞伎とミュージカル、現代演劇の代表的な舞台に限られる。現代演劇でいえば、蜷川幸雄、永井愛、三谷幸喜、野田秀樹ら一ヶ月公演が維持できる限られた少数の舞台にのみ、評がこのように機能している。
 クラッシックのみならず、ポピューラーをふくめてコンサート、落語、能、狂言は、ほとんどが一日限りの公演であり、新聞評を読んで、舞台に足を運ぶようなシステムにはなっていない。
 紙媒体からインターネットへ新聞が完全に軸足を移す時代がくれば、ほとんどすべての舞台について、初日の翌朝には評が掲載させる時代がくると思うが、その場合もコンサートなどは、原理的に公演終了後の掲載となる。
 だとすれば、劇評に他の役割を考えるべきだと思う。ひとつには歴史化の作業である。この年、この月、この日に何が世界で起こっていたかを後世の人々が研究するときに、横断的なアーカイヴとして、新聞を検索する日が近づいている。そこでは、歌舞伎やクラッシックの狭い世界の論理ではなく、その舞台がいかに現代社会にとって意味を持っていたか、いかに世界に対して開かれていたかが書かれるべきではないか。
 もとより、評論は、観客動員のための道具ではない。
 後世などどいうのは、もちろんおこがましいと思うが、少なくとも、観客が自分の目で立ち会った舞台が、他者によってどのように写っていたのか、自他の目の違いを確認する場でありたいと思う。また、望むらくは、ふと評を目にしてしまった人々が、そのジャンルに興味をもつきっかけとなればいい。そう願っている。