2010年4月25日日曜日

新聞劇評はいかにあるべきか

歌舞伎評を一ヶ月担当した。
実質的には、二劇場の歌舞伎を毎週土曜日三週にわたって執筆した。
三部制の歌舞伎座「お名残公演」を上下として二週にわたって書き、新橋演舞場「東海道四谷怪談」を三週目に出すというかたちである。
掲載順については、相談は受けたが、基本的に東京新聞の編集権の領域であり、私に決定権はない。この問題については、また、書く機会があると思うので、ここではおく。
筆者の立場として、まずつきあたったのは字数である。それぞれが700字という字数の制約があった。もっとも、歌舞伎劇評の通例では、昼の部夜の部を、一回の劇評で書く方が普通であろう。今月は、半日の芝居を一回で書くかたちだったので、まだしも余裕があった。
余裕があったはずではあるけれども、それでも駆け足の評であることは否めない。新聞評を終えた後に、雑誌「演劇界」の歌舞伎座評を十二枚、4800字で書いたが、少なくとも意を尽くせたとの思いがあった。これは私自身の慣れのせいかもしれない。
また、以前、現代演劇の新聞評を書いていたときは、一本作品を700字にまとめる仕事をしていた。このときも短いとは思ったが、まだしもである。
来月以降、ミドリの公演、昼夜一日の興行を、700字で書くとすると、なんらかの絞り込みや取捨選択を行わなければ、どうにも仕方がないと思う。現行の字数で、まんべんなくそれぞれの狂言について、平均的に書こうと思えば、寸評の域をでないからである。
寸評で「工夫がほしい」とか「成立していない」と理由を明示せず、断定されても、書かれた役者はもちろん、読者も納得できないに違いない。それには、絞り込みを行って、重要な狂言に字数を割く試みをはじめていこうと思っている。
ただ、そのような取捨選択を行い、たとえば一本もしくは二本の狂言しか扱わなかった場合、これはこれで、問題が起きてくる。
歌舞伎評は、観客動員のための道具に墜落してはならない。次の世代に対して、歴史化する役割を負っていると私は考えている。ただ、この歴史化には、評価の部分と記録の部分があり、取捨選択を行った場合、この記録の部分を犠牲にしなければならないという問題が起こってくる。
歌舞伎を取り巻くメディアの状況は、この五年ほどで大きく変わったと思う。以前は、新聞と専門誌が、この歴史化について大きな役割を果たしてきたが、インターネットの出現によって、マスメディアがネットに進出するのみならず、歌舞伎ファンのブログが数多く出来、それぞれが、評価と記録の役割を果たしている。このごろではTwitterの出現もあり、リアルタイムでの評価は、またたくまに浸透する仕組みが整備されつつある。
こうした状況の変化を受けて、新聞劇評が変わらなくてよいはずがない。
東京新聞は、地域紙であって全国紙ではない。ところが、ネットでの配信によって、全国のみなさんに読んでいただけるようになった。歌舞伎座閉場の三年間、どうしても東京中心だった歌舞伎公演が、松竹座、南座、博多座はじめ、地域での興行が多くなることは、当然予想される。地域の歌舞伎愛好家が多くなったときに、いかに情報を流通させていくか、みなさんの関心はどこに向かうのかを考えなければと思う。
○東京新聞のURLは、以下の通りです。伝統芸能のラインナップをご参照ください。
http://bit.ly/cbD57n