2010年4月11日日曜日

思い出のかけら ーー追悼 井上ひさし

二五年あまりも演劇界にいるのに、井上さんとお目にかかったことは、ほんの数回しかない。一度は、紀伊國屋ホールでこまつ座の公演があったときの初日祝いの席で、もう一度は、公的な会議の席のことだった。
いずれも、パブリックな席だったので、親しくお話しすることはかなわなかった。私にとって井上さんは、あまりにも遠い存在だった。それは、国民作家として、日本の劇作を代表する存在だったことが大きい。私自身が、井上作品について、劇評をそれほど多く書いていないこともあった。これほど大きな存在に対して、私などが時間をとってしまうことへのためらいがあった。
遠くから見る井上さんは、からだの大きな人だなという印象だった。著書の印象からか、猫背で小さい人であるかのように思い込んでいた。けれど、実際の井上さんは、胸板も厚く、がっしりとした体躯であった。初日祝いの席には、大江健三郎さんもいらしていて、先に引き上げる大江さんを、井上さんがエレベーターホールまで送っていくのを見たことがある。知の巨人たちが、ふたりで立ち話をする姿は、感慨深いものがあった。
お目にかかる機会は、それだけだったが、実は個人的にお世話になったことがある。
長年勤めていた会社を辞め、フリーになったとき、人から、日本文芸家協会に入会したらとすすめられた。入会には会員の推薦が必要なので、面識もないのに、あつかましくも井上さんにお手紙を書いた。これこれこういう者なのですが、ご推薦いただけませんかというお願いの手紙である。
ほどなく、封書をいただき、ご快諾いただいた。その文面の暖かさが、フリーになった私にとってどれほど励みになったか。今も忘れない。
つい一昨日、永井愛作・演出の「かたりの椅子」を見た。新国立劇場の芸術監督交代の問題をモデルにした舞台である。
永井さんは、新国立劇場の遠山理事長と深く対立した。その件は、ここでは詳しく述べないが、その折り、井上さんが永井さんに「(この問題は)芝居にしたらどうか」と肩を推してくれたと聞いた。それがなければ、書けなかったかも知れないと、永井さんがおっしゃっていたのが印象的だった。
井上さんのことばの意味は大きい。どんな困難にぶつかろうと、それをそのまま書くのではなく、笑いと諧謔を織り交ぜて、きちんと作品にしておくのが大事だと、井上さんは永井さんに伝えたかったのだと私は思う。永井さんにはそれができると、井上さんは考えていたに違いない。井上さん、永井さん、それぞれの作風を考えると、そんなことばが確かなかたちで手渡されたのだと思う。

近作の予定を勘三郎さんから聞いていた。
来年のコクーン歌舞伎は、井上ひさし作で、忠臣蔵の外伝を「歌舞伎として」やるのだという。この企画が決まったときの勘三郎さんが、どれほどうれしそうだったことか。このドリームチームによる舞台は、幻に終わってしまった。こうして残された私たちは、観ることができなかった舞台をこころの隅にかかえて、生き続けていかなければならない。
井上ひさしさんのご冥福をお祈りいたします。