2010年4月2日金曜日

抜歯という悪夢

この痛みを忘れないうちに、書いておこうと思う。
発端は、紀伊國屋演劇賞の贈賞式である。審査員の末席を汚す私は、今年の当番として、審査経過を報告するために壇上にいた。もとよりスピーチはからきし下手だから、原稿を用意した。会に集まっているのは、受賞者はもとより演劇関係者ばかりである。下手なエロキューションは無駄な抵抗とあきらめて、原稿を棒読みしていたところ、事件が起きた。
差し歯がぽろりと抜け落ちたのである。
とっさに右の手で、落ちた歯を受け止めた。
前列にはカメラもヴィディオも廻っている。スピーチを途中で止めるわけにはいかない。仕方なく、左の手で原稿を持ち、右の手で差し歯を握りしめ、右上の前歯にぽっかり穴を開けたまま私は話し続けた。
悪夢の時間が過ぎて、トイレに駆け込み、とりあえず差し歯を挿入してみた。
とりあえずは止まった。ぐらぐらはするが、どうしようもない。
会を早々に抜けると、打ち合わせが待っていた。半年前に事情があり延期してもらった中村勘三郎さんとの会合である。
話自体は、きわめて順調に進み、ステーキを食べた。これがよくなかった。席を移して、ワインを飲むことになった。
差し歯のことはすっかり忘れていた。
私の左隣には、勘三郎さんが座っていた。グラスを置いて、私はなにごとかを大声で話し出したときである。
またしても差し歯が落ちた。今度は手でつかみそこねた。
煙草のヤニで汚れた差し歯が、白いテーブルクロスに転がったのである。
一瞬、空気が凍った。
「ごめん、見なかったふりをしようとしたけど、見ちゃった、ごめん」
と、勘三郎さんの助け船が入った。なごやかな空気に戻ったが、穴があったら入りたいと、酔いは一瞬で覚めた。
こうした一連の悪夢の結果、今日、歯医者に行って大工事となった。
一時間半たっぷりかけて、残っていた歯根を抜き取り、仮歯を入れる拷問を受けるはめになったのである。
一日に二度の恥をかいて、そればかりではなく、自費診療に追いやられ、しかも、苦痛に満ちた今日が待っていた。
これを悪夢と言わずにいられようか。
書き終わったら、さっき飲んだ鎮痛剤が効いてきた。