2011年10月23日日曜日

言葉と身体の反復について

俳優の身体を限界にまで追い込む手法自体は、とりわけめずらしいわけではない。けれども、それが台詞と身体の反復とともに行われたときに、不可思議な地平が開けているように思った。 しかも、その台詞と身体は、ラップとともにあり、歪みが与えられている。ナチュラルな表現を捨て、二回三回、いや十回十五回と繰り返されているときに、呪術的な性格を帯び始める。まるで都市の闇のなかに、呪われた人間たちが囚われている。その囚人たちのうめき声、もだえる姿を見せつけられているかのようだった。 マームとジプシーの『Kと真夜中のほとりで』(作・演出/藤田貴大)は、三年前、湖のほとりに靴を残したまま消えてしまった少女をめぐって、真夜中の時間をカウントしながら、人々がこの町の闇をぬっていく姿が、描かれている。しかも、その表現は、先に書いたように、方形のリングを主舞台としながら、、息をつかせぬ表現として叩きつけられている。 私は、ローザスや黒田育代を思い出しつつも、この切迫した舞台が、まぎれもなく私たちの今を切り取っていると思う。少女は、おそらくは死んでしまった。けれど、ここに重畳する人物たちは、言葉としての「死」を一言も口にしない。「死」と音にしてしまえば、何かが崩壊してしまう。今、私たちが向かい会っている「生」を保つことさえ、できなくなってしまう。人々は「K」を記憶し、探し続けることによって、かろうじて今を生き続ける。この町にとどまるべきか、去って行くべきかを考え続ける。 Kの兄かえでを演じた尾野島慎太朗、りんこの成田亜佑美、そのこの吉田聡子らのその汗は、なんと輝かしいことか。アスリートの汗がときに神々しいまでの輝きを帯びるように、マームとジプシーの俳優たちは、この舞台を行く抜こうとしていた。

2011年1月15日土曜日

Untitled

2010年11月5日金曜日

in my office with bike


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grapes


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